いざ尋常に、負!? 戦場での思想と戦術の変遷【第回】


■『いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷シリーズ』は当初前後編二回で
お送りする予定でしたが、文章推敲の結果二編で収まりきらないことがはっきりしたため、
急遽前中後編三回でお送りすることになりました。
回編成でお送りすることになりました。 (・(ェ,,)・ )。oO(あきらかに中編が長すぎます。 )




 日本皇朝が、憂き世を離れぬ怨念と政治家・寺社勢力の利欲が渦巻く奈良の都を捨て、新しき都・平安京を開いたのは、読者の皆様もご存知の通り794年のこと。


 『鳴くよ(794)鶯、平安京』という有名すぎる暗記法でも有名なこの都こそ、言わずと知れた京の都、現在の京都府・京都市です。

 『千年の""和と""寧を願って』遷都した時の帝・桓武天皇の想いが結願したのか、本当に一千年以上…明治維新を迎えるまで我が国の都としてその華々しい栄華から諸行無常の衰退、様々な歴史を織り成して来たわけですが…――


 その都の名前を冠に置く『平安時代』に誕生した武士こそが、当HP『赤髭亭』が扱っている戦国時代と、その発端となった戦国武将達のご先祖様達であり、その平安朝の武士達の闘いが本当に気高く誇り高い、まるで『決闘』の様に折り目正しく正々堂々としたものだった…ということは、前編でもお話した通りです。


 今宵はその第二回、その誇り高き彼らがなぜ皇朝関係者や摂関藤原家などの上流階級から『』と罵られた立場に貶められることになったかを徒然と語っていこうと考えているのですが…。。



 今宵はそのお話に入る前に、インド人を右にハンドルを右に急展開させて読者の皆様方にエスチョンです。

 毎度毎度、歴史痛的与太話開幕が『。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!』では飽きも来るでしょうし…たまには趣向を変えて頭の体操をしておきましょう。

■…――( ・(,,ェ)・)?  何、話が唐突過ぎてついていけない?お客さん、お初ですね?




【第
下の漢字は、何と読みますか?



    



 …――はぃ σ(゜、。 )? (某・相棒の杉下右京警部殿風に)

    『""の隣に""(イ)が来てるから、
         【おまいり】か【そうしき】だろう。』
って?


 いえいえ。簡単すぎるからって、罠とかは仕掛けてませんって。


 確かに赤髭は"歴史"(れきしつう。戦国歴史に無駄に通暁した痛い人)ですが…最初の第一問でいきなり、そんな性根の歪んだひっかけ問題はやりませんよ。

 普通に読んで頂いて結構です。 (*-(,,ェ)-) うふ。



 …はい"さむらい"ですそのとーりッ。(故・児玉清さん風に)

 サッカーやプロ野球の国際大会で日本代表チームを『侍JAPAN』と銘打つように、力強い日本人を形容する代名詞・冠詞として、また『武士』の異名としても現代に残っている言葉…その字面や韻には、日本人の誇りと尊厳が感じられる響きです。


 答えはサムライ、ぇーまことに結構でございましたッ。
 それでは冷静かつ大胆に参りましょう、次の問題ですどーぞッ。



【第問】
下の言葉に、読み仮名を振って下さい。 



    侍う


 …――いきなりしい問題になりましたね。

…あ、残念ですが国語辞典を引いてもこの言葉は載っていないと思いますよ。

 実は『(こご)といって、平安時代はともかく…現代日本ではもう使われていない、歴史のなかで忘れ去られてしまった言葉のひとつだからです。


 『…――そんなのめるわけがないだろう!!って? 

…はい、ごもっとも。 ( ・(,,ェ)・)。oO( やっぱり性根が歪んでるじゃないか歴史痛 )



 は 『さぶら』う 、です。

 この言葉が古語となり使われなくなってしまったのは、実を言えば次の第三問で出題される言葉に、取って替わられてしまったからです。

 しかも、この『さぶらう』という言葉があまり使われなくなったのが、ちょうど大河『平清盛』の時代背景と同じ…武士達が台頭する平安時代末期からだったりなんかしちゃったりするんですよ。
 ( ・(,,ェ)・)。oO( 今度は故・古川太一郎さん風ですかおとっつぁん。歳ばれるぞ )


 いったい『さぶらう』とはどういう味の言葉なのか?

それは次の最終問題で解説しましょう。ラストミステリー、武士疑・発見!!
 ( ・(,,ェ)・)。oO( 草野仁さん風に。誰がうまいこと言えといった )



【第】 
下の言葉に、読み仮名を振って下さい。 
また、言葉の意味が判る場合は合わせてお答え下さい。


  侍る


  今度は平成日本でもちゃんと使われる言葉ですし、当然国語辞典にも載ってます。携帯のメールでも賢い子なら変換も出来るでしょう

 まぁ、学生時代に国語や古文が得意だった方や戦国時代Fanの皆様であれば簡単に…



 …ぇ?何、『さら』る?
   

     はい消えたッ!!
  (机の端をバシン!!と叩いて×マークをつける愛川欽也さん風。 当然隣は楠田絵里子さん。)




 ――…とかいう、確実に三十路代にしか判らないネタは置いといて、

 正解は はべ』る、です。  


 『自分より身分の高い人のおそばにひかえて、んで居る』という意味の謙譲語(けんじょうご/話し相手が格上の場合、自らをへりくだってかしこまる言葉使い)ですね。


 また、平安時代には、自分より身分が高い人に対して話をするさいの『〜でございます。』という意味のの謙譲語としても使われて居ました。
『〜侍り。』、『〜さぶらう。』、というふうに用いられます。


 この言葉に『』という漢字が使われたのは、戦国武将達のご先祖様である平安武士達が上流階級の傍らにつき従い、侍りへりくだる地位であったことは決して無関係ではありません。

 本来は皇族や貴族の飼い犬でしかなかった平安武士達が一挙にその劣勢を挽回したのが平安時代末のこと、そして武家政権の開幕を高らかに告げた者こそが、平清盛なのです。


 本年大河『平清盛』でも「れる者は久しからず、盛者必衰の理」の物語が織り成されるであろう平家一門、平安武士の生き様。



 その平家が源氏によって滅亡の憂き目を見るのが、長門国(現山口県西部)の壇ノ浦(だんのうら)なのは歴史の教科書でもお馴染み、有名すぎる史実です。

 敢えて伏せることもない一般歴史知識ですが…平家の盛衰興亡の伝承である『平家物語』にも詳細に残されている平家滅亡の段に、この『さぶらう』という言が登場しています。



 1185年(文治元年)、壇ノ浦の合戦で平家の赤旗が敗北・滅亡が必至…と、戦況を悟ったとある(大河のネタバレになるので誰であるかは伏せます)が、合戦に平家方として同席していたとある(同じく大河ネタバレ防止の為に伏せます)平家の武運が尽きたことを告げ、源氏方に捕らわれ虜囚の辱めを受ける前に『自』をお願いする場面があるのですが…。




 僅か八歳だった時の帝は『壇ノ浦の海に入水自し、極楽浄土に向かう』旨を告げられたというのに、死を恐れうろたえて泣き出す…―――こともなく、冷静沈着にその申し出を受諾。

 …遥か東の方角にある伊勢大神宮に向けて静かに瞑目し、念仏を唱えはじめました。



 まだ年端もいかない幼帝が最期の時を静かに迎えようとしている、その健気な立ち居振る舞いを見たその女性は、あまりの痛ましさに涙をこぼしたと言いますが…――。


 平家の公達や武勲で鳴らした勇者達が次々と壇ノ浦に身を投げる中、その女性も覚悟を決めます。

 天皇を抱き、源氏に奪われるくらいならと、"三種の神器"…天皇家の皇位継承儀式に必要な宝物である草薙剣と八坂の神璽を抱えて、幼い帝を連れ添って船端へ。



  『帝、壇ノ浦の波の下にも、のさぶらうぞ。』
               (天皇様、瀬戸内海の海の底にも都はございますよ…。)


 と、その哀れな生涯を慰める言葉と共に、二人は壇ノ浦の波間に身を投げました。

 源氏方は壇ノ浦合戦の終結後、波間に漂う平家の女官を大勢救出していますが…
とうとうこの二人だけは、見つけることが出来なかったそうです。


 そして、この平家滅亡を境に…『高貴な人物の元に控え、自らをへりくだって言う謙譲語』としての『さぶらう』という言葉は史書から疎らとなっていき、武士が皇族・貴族に"侍る"家来ではなく、政治を動かす中心となっていく時代…―源頼朝による鎌倉幕府の治世が始まるのです。



  
■歴史痛
Check-Point 帝と女性は見事ったけれど。


さて、源平合戦最後の花舞台、『壇ノ浦の合戦』。
 05年大河『義経』でも阿部寛演じる平知盛の奮戦や、タッキー義経の超人的活躍が描かれた源氏の白旗Vs平家の赤旗のラストバトル、見ごたえのある描写がなされていましたが…

 平家滅亡が決定的になり、数多くの平家一門が『源氏に捕まるくらいなら』と瀬戸内海へ飛び込み、自決という形で武士らしい最後を遂げていく中…どうしてもそれが出
ない人が居ました。


 『八歳の帝とその付き添い女性、そして平家の勇者達ですら最後を決めてんでいったのに、誰だそんなみっともない真似、平家の面汚しな臆病振りをみせつけたのは』…と、誰もが思うところでしょうが…。


 実は、その『自決するための入水』がどうしても出来なかったのはほかの誰でもない、平家の
帥にあたる大将殿でした。
(註・大河のネタバレになるため誰であるかは伏せますが、松山ケンイチさん演じる清盛ではありません。清盛は壇ノ浦合戦の四年前に逝去しているため、彼の後継者です。)


 最終的には味方の平家武者から『ぇえい、みっともない!!』と船端から海へ突き落とされたのですが、よほど命が惜しかったか、それとも死に物狂いだったのか…

 重さ三十s以上ある平安朝の大鎧を着たままだった平家総帥、なんとその重装備のまま壇ノ浦の海を泳ぐという
業を披露。普通なら絶対沈んで溺死してます。


 でも、そんな見苦しい努力もむなしく結局は源氏方の武士に捕まった平家大将、鎌倉へ送られるその途中で処刑されてしまいました。
 この逞しくも情けない平家総領の刑死を最後に、平家は本当の意味で滅亡を遂げたのです。


 入道相國・平清盛も冥土でその報を聞いたときには、さぞかしがっかりしたでしょうね…。






【貴族達の決闘から反乱軍との死闘に 合戦様の変遷期】

【1.増え続ける賜姓皇族と希少価値の落。】

 さて、今や衰える兆しもなくますます加熱していく戦国時代嗜好の風潮。

 そして平成現代の日本人に深い感銘をあたえ、誇り高い生き様と崇敬、そして熱狂的な(誤認含む)人気を集め続ける戦国武将達のご先祖様が、平安時代に皇室から『口減らし』のため姓を受けて臣籍降下(しんせきこうか。皇族が時の天皇より姓を受けて皇族籍を脱し、家臣となること、賜姓皇族。)した、元は天皇を先に持つ平安武士達。

 なぜその誇り高き由緒ある血統であるはずの彼らが、本年大河『平清盛』の時代、平安時代も終わりに近い十二世紀頃には時の帝や上流貴族に『』呼ばわりされなければいけなかったのか、そしてなぜ彼らが今をときめく戦国武将のご先祖様となったのか。



 理由は色々ありますが、その原因は『あまりにも賜姓皇族がえすぎたこと』と、『世代交替による家格の低下』にありました。



 平清盛が、平安京を開いた桓武天皇の子孫…桓武平氏のうちの伊勢平氏六波羅流という家系の出身、とは前回もお話したことですが…


 実は桓武天皇の子孫血縁で、皇籍を脱して『平氏』を名乗る賜姓皇族になった者の合計は…軽く名を超えていました。

 また、嵯峨天皇から由緒を発する源氏も、帝が変わるたびにどんどん増え続け、その家系は総二十一家にもなっています。

 ( ・(,,ェ)・)。oO( いくら偉いからって夜頑張りすぎたんじゃないか、当時の帝。赤髭が思うに。 )



 少ないのであれば希少価値もあるでしょうが、天皇が代替わりするたび次々と創立していく賜姓皇族。誰が割を食うのかといえば、それは現天皇よりも前時代に臣籍降下した家系です。


 皇族から家臣に落ちても『元はの御一族』と朝廷で尊敬を集め、大臣級の椅子と豊かな暮らしが保障されたのはせいぜい初代〜二代目くらいまで。

 降下してからの総領が三代目になる頃には、新しい賜姓皇族家の方が現天皇により血縁が近いぶん、格がになっていきます。

 そして、彼らもまた誇り高き帝の一族として相応しいポストを得る資格があります。


 しかし、大臣や名誉ある官職の席数には限りがありますし、増えるわけでもありません。




 要するに…皇族を辞めて臣籍降下した一族が座る席の数が、時代の流れと共にりなくなってしまったのです、結局。
(´・ω・`)。oO( フルーツバスケット!! みたいなもんですね。 )





 こうなってくると悲なのは、三代目〜四代目の古い賜姓皇族。

 初代・二代の頃のような朝廷での官職や扱いがなければ、それに伴う実入りが激減してしまいうからです。『俺はさる帝の曾孫だぞ!!』では、もう食い扶持にありつけなくなってしまったということ。

 かつての栄華もどこへやら、三代目は新たなポストを求めて、そして一族を養うべく涙ぐましい就職活動…しかもそう大したこともない、ちっぽけな席を求めて東奔西走する羽目になります。


 この就職活動に成功した一族には『元皇族だから』、ということで(ひょうえふ。皇居宮城の守衛や巡検、天皇行幸時にはその護衛を担当する官職)門府(えもんふ。皇居宮城外の守衛や京都の治安維持・警察組織の官職)といった皇居や皇族のお屋敷の警備、京都の治安や盗賊追捕などを掌るガードマンを仰せつかることもありました。


 彼らが、後にいわゆる『平安武士』となり、後に『平家』や『源氏』が皇族や摂関藤原家など上流貴族の家来扱いになる所以
(ゆえん)となったのですが…


 元は皇族だったのに、いつのまにかその同族だったはずの皇室や家来だった藤原家の走狗となってしまっていますよね。




【2.都落ちして土着豪族化した帝の末裔、その子達。】

 しかし皇族・貴族の『犬』になれたのはまだ運が良い方で、京都や皇居宮城を守護する『平安武士』の官職にすらけなかった場合はどうなるのか。


 その場合はもう、京都をれて地方に流れていくよりほかありません。



 臣籍降下した平家や源氏がうじゃうじゃといる都と違い、地方ではまだまだ賜姓皇族は地元民の崇敬を集めることができたからです。


 言い方は悪いですが、『昔は大スターだった俳優が人気を失い都落ちしても、地方公演をすれば人がまってくる』ようなもので…。

 元皇族というネームバリューがあれば、地方に行けば今で言うところの町長さんや村長さん級の席…――いわゆる『豪族』になることが出来たのです。




 こういった、地方に流れて豪族化した平家や源氏の末裔が後に『戦国武将』を生み出すとなり、『どこの戦国大名家も、ご先祖様をたどっていけば平家か源氏か藤原家』という不思議な現象の原因となっていくわけです。

 (・(ェ,,)・ )。oO( まぁ、本当に血統書つきの平氏源氏出身の戦国大名は実際、数えるほどしか居ませんでしたが。 徳川家康の源氏出身、島津義久の源氏出身とかは典型的な自称・賜姓皇族の子孫です。)




 都落ちして土着豪族化した、戦国時代と関連ある源氏の一族を列記すれば…まずは清和天皇の孫から出た和源氏』(せいわげんじ)


 下野国(現栃木県)・上野国(現群馬県)に下向した一族の末裔からは足利氏・新田といった南北朝時代の英傑たちを、甲斐国(現山梨県)・信濃国(現長野県)に流れた一族からは武田信玄・板垣信方・甘利虎泰・山県昌景・馬場信春・村上義清・小笠原長時ら大河『風林火山』の主だった戦国武将達が輩出されています。


       


 そして後に徳川家康もこの清和源氏の『仲間入り』を果たしたことで、【鎌倉幕府を開いた源頼朝・室町幕府を開いた足利尊氏・そして江戸幕府を開いた徳川家康】と、三人もの武家政権創始者がこの清和源氏より出現したことになり…。


 京洛で細々と暮らしていた公家源氏とは裏腹に、都落ちしたことで名誉と栄光を得たこの家系、のちに『武家源氏といえば清和』と賞賛されるほどの名門となりました。
 ( ・(,,ェ)・)。oO( ちなみに駒井高白斎や諸角虎定、大井一族・平賀源心も清和源氏です。 )



 他にも宇多天皇から出た源氏(うだげんじ)からは、その奇矯な挙動で世間にBASARA婆沙羅大名(ばさらだいみょう)と渾名され、傾き者のパイオニアとなった南北朝時代の梟雄・佐々木(ささきどうよ)を筆頭とする『近江』が近江国(現滋賀県)に土着。


 大河『毛利元就』で故・緒方拳さんが好演した尼子経久(あまごつねひさ)ら出雲尼子家のほか、織田信長の上洛時には南近江でその覇道をはばまんとした戦国大名・六角承禎(ろっかくじょうてい)率いる近江六角家、大河『江』では三姉妹のうち次女の(水川あさみ)頼りない夫として登場した京極高次(きょうごくたかつぐ)らを輩出しています。

 ( ・(,,ェ)・)。oO( 出所も怪しい自称平氏の信長より、六角承禎のほうがよっぽどか家格は上だったんですね。もっとも、家柄だけで生き延びれるほど戦国時代は甘くないですが。 )




【3.広がる賜姓皇族家の格差、そして翻る旗!!。】

 さぁ、そしてこの同じ臣籍降下した賜姓皇族な筈なのに、一方では京の都で大臣の席を得、もしくは皇族や上流貴族の家臣。一方では席に座れず都落ちして地方に流れ、豪族。という格差が生まれてくると…何が起こるか。

 当然ながら、そこには『過去には名誉・由緒ある元皇族の御家なのに、家系によって報われ方がぜんぜん』という不公平感が発生します。


 その不平不満、憤懣やるかたない格差が『千年の平和と安寧を願って』開かれた筈の平安時代、その都である平安京や、地方で反逆叛乱の火種となって燻り、ついには臣籍降下した元皇族である平氏や源氏から朝廷に弓を引く反逆者が現れました。


 最初に弓を引いたのは、平家の人間。


 歴史の教科書でもお馴染み、『平将門の乱』を引き起こした(たいらのまさかど ????〜940)です。

       

 将門は、姓が示す通り桓武天皇の血筋…その玄孫(やしゃご。曾孫の子)で、当時は異民族の土地とされた関東地方を抑えるべく下総国(現千葉県北部)へ赴任した賜姓皇族・桓武平氏初代・高(たかもちおう)の孫でしたから、ちょうど朝廷からの扱いがぞんざいになる賜姓皇族三代目です。

 彼もこの賜姓皇族としての格差に不満を感じたのか、一度は上洛。
 朝廷を席巻していた藤原家に働きかけて、桓武天皇の玄孫たるに相応しい地位(検非違使佐、京の都の治安維持省副長官)を要求しますが、誇るべき桓武天皇が世を去って百年以上が過ぎていますし、相手にされません。


 ちょうど父の平良将(たいらのよしまさ)が逝去したこともあり、遺産となった領土を継承しようと関東に戻ってみれば、既にその土地も平国香(たいらのくにか)叔父達により勝手に領されていました。


 935年(承平五年)これまでの扱いにぶち切れた将門は挙兵し、叔父の国香らを殺害して亡父の遺領を奪還。元より仲の悪かった常陸国(現茨城県)の豪族・源護(みなもとのまもる)らとその息子達、そして護に加担する他の叔父達も次々と撃破し、その豪腕振りに惹かれた関東の平安武士達の人望を集めることになります。

 調子に乗った将門は939年(天慶二年)、集まった手勢を連れて常陸国の国衙(こくが。国の政庁)襲撃してしまいます。



 朝廷の機関を襲うということは、それすなわち逆。

 叛旗を翻した将門は、自身を新たな天皇…『(しんのう)と名乗り、関東八カ国の帝たらんことを宣言します。まさか桓武天皇も、千年の平安を願って開いた時代に玄孫が叛乱を起こすとは夢にも思ってなかったことでしょう。

 この頃の将門の言葉として、
          

 というものが伝承されていまが、その意味は『今の世の中、強い奴こそいんだよ!!』。
 帝の末裔が朝廷に叛き、『勝てば官軍、負ければ賊軍!!』と言い放ったことになります。


 新たな関東の支配者となった将門の自信が満ち溢れるような豪語ですが、そんな彼も叛乱二ヶ月目には早くも武運が尽きたか、関東でも豪傑と名高かった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と、従兄弟の平貞盛(たいらのさだもり、国香の子)によって鎮圧され…自身は合戦中に眉間へ弓矢を喰らい、あっけなくしていました。

      

 この将門を討伐した貞盛の子孫が、伊勢平氏六波羅流…平清盛の家系であるということは、前編でもお話したとおりです。


 平氏はこの後、1028年(長元元年)にも将門の孫にあたる(たいらのただつね)が安房国(現千葉県南端)で再び叛乱を起こすなど立て続けに反逆者をしてしまい、この鎮圧に貞盛直系の子孫・平直方(たいらのなおかた)が失敗、追討軍の武将職を解任される失態も続き、賜姓皇族としての平氏の名声は地に落ちてしまいます。

     

 再び平氏が勢力を取り戻すには、平清盛の祖父である(たいらのまさもり ????〜1121?)の登場を待たなければいけませんでした。




 そして、立て続けに謀叛者を出した桓武平氏とは違って順当に勢力を拡大したのが同じ賜姓皇族である源氏


 平将門と同時代には、後に和源氏と呼ばれることになる家系の祖(みなもとのつねもと ????〜961?)が登場します。

 この経基自身はパっとしない人だったようですが、彼の孫にあたる源頼信(みなもとのよりのぶ)は先述した『平忠常の乱』を平定するなど武勲を挙げ、当時絶世の栄華を誇った藤原道長にも仕官。

 『道長天王』と呼ばれるほどの武威を誇り、大いに源氏の武名を高めます。



 そして、頼信の子・頼義(よりよし)もまた奥羽で起こった足掛け十数年という長い長い戦乱を闘い抜き、平安武士の尊敬を集め…そして、彼の子が、清和源氏の名声を決定的なものとします。

      

 その人こそ、世に『八幡太郎』の通称で知られ、『天下第一の武勇の士』として平安朝でも随一の戦術と人望を持ち合わせた豪傑であり、後の乱世でも清和源氏が輩出した最高の武人と尊崇された古今無双の英雄・源(みなもとのよしいえ 1039?〜1106)です。


 93年大河『炎立つ』でもその活躍振りが描かれたこの頼義・義家親子ですが、奥羽を舞台にして起きた内乱『前九年の役(ぜんくねんのえき)や『後三年の役(ごさんねんのえき)では(むつのかみ。現福島県・宮城県・岩手県・青森県の長官)として鎮圧に奮闘。

 奥羽での合戦は最終的には地元豪族・清原氏に席を譲らされる形で敗退となりましたが、義家は一緒に戦ってくれた平安武士達に身銭を切って褒美を振る舞い、その敢闘を讃えるという懐の深さを見せつけます。


 この行動に感動した関東地方の平安武士達…いわゆる『坂東武者(ばんどうむしゃ)たちはこぞって源氏と主従関係を結ぶようになり、これが後に清和源氏が"武家の梁"たる資格を有する由緒となりました。



        


 大河『平清盛』でも登場している白河法皇(伊東四郎)も源義家の勇敢な気質を寵愛し、後に義家は武家源氏としては初となる院殿上人(いんでんじょうびと、院政をおこなう上皇の御所へ参内することを許される上位貴族)となっています。



 しかし、この源義家の子がいけません。

 彼の嫡男である(みなもとのよしちか)は実力こそ父譲りの猛将でしたが、性格が大変粗暴で欲深い粗忽者。

 実は清和源氏、あれだけ頼義・義家父子が大活躍したというのに、朝廷からビタ一文も褒賞が貰えず、窮に喘いでいるという裏事情がありました。義親の横暴は、そんな武家源氏への扱いに対する憤懣の表れでした。

 …所詮、この頃はまだ平安武士は『犬』に過ぎなかったのです。

        

 義親は京を離れ地方に赴任することになりますが、行く先々で罪もない領民を殺したり略奪を働いたりで手のつけようがなく、懲罰として隠岐島へ流刑を言い渡されても刑地に行かず、出雲国(現島根県東部)でまた官吏を殺す横暴を働き、ついた渾名が『対馬(あくつしま。対馬は、義親の受領名だった対馬守(つしまのかみ。現対馬の長官)のこと)

 
  
■歴史痛
Check-Point 今とは違う『』の意味。


悪役、悪漢、悪徳、悪党、そして赤髭も大好きな悪ふざけ

 平成現代の日本ではご覧の通り、『悪』とつけば、それはたいていが文字通り『悪い、道徳観に反する』などなど、良い意味には普通用いられませんが…


 大河『平清盛』の時代背景である平安時代から南北朝時代・室町時代にかけての『悪』という言葉には、今で言う価値観のほかに『
い』という意味もありました。


 たとえば、91年大河『太平記』で武田鉄矢さんが好演した南北朝時代屈指の兵法家であり英雄である楠木正成。彼はその出自を『河内国(現大阪府東部)出身の悪党』とされていますが…。

 ここでいうところの悪党とは『
い連中』という意味で、確かに略奪や人の虚を突く奇襲戦術を得意とした正成ではありますが、当時は一流の軍人、世間一般に『悪党』と認識されるだけの実力者だったとことを示すものです。

 この
=強い奴』という表現は大河『平清盛』でも今後、複数回にわたって登場する可能性があるので、ドラマを視聴していく上で覚えておくと後々疑問に思わずに済むかもしれません。
 



 その暴虐非道に怒った朝廷は、彼の父である義家を追討に差し向けかけようと考えますが、1106年(嘉承元年)、その矢先に義家が去。(享年六十八歳)


 そこで朝廷が源義親討伐軍の大将に選んだのが、当時は瀬戸内海での海賊退治で武勲を挙げていた平清盛の祖父・平正盛だったのです。

 正盛率いる平家武者は剛毅豪胆、勇敢無双を誇る義親の源氏党を撃破。


      

 暴れ者の源義親を見事討伐し、その首級をもって京の都に凱旋しました。この大殊勲によって、反逆者続きで凋落していた平氏は再び世間の注目を浴び、今度は源氏が日陰で不遇を迎えることになるのです。


 ちなみに、この義親の子が大河『平清盛』第一回で白河法皇(伊東四郎)に『逃げた官女を捕まえてこいてこい』という、おおよそ武士らしからぬ命令を受けていた(みなもとのためよし)です。


 第一回では何気なく話し合っていた平忠盛(中井貴一)と源為義(小日向文世)ですが、実際は親の代同士・御先祖様同士でし合いをしているという微妙な関係だったことになります。




 さて、第二回では平家や源氏ら『賜姓皇族』の待遇の浮き沈みやその興亡、複雑な因縁の糸が絡み合った戦いの歴史についてお話していきましたが…。

 再編成した第三回ではそんな時代の流れと共に変貌していく世情に合わせて変わっていった合戦場へ新たに登場した欠かすことの出来ない端役にして名脇役・『雑兵』について御案内致します。

 m9;@`ω@´) チャンネルは、そのまッ!!! (ちょっと裏声入った大泉洋さん風に)


いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷【第三回】


    

徳島県の水と空気が生んだ風味バツグンの柑橘類をご自宅で!!




広告集中。

 



■前に戻る    トップへ戻る