戦国武将のウソ・本当物語 第三回 武田信玄 【後編】


■知り難きこと影の如く。信玄の影武者達、その真贋について
 信玄の影武者といえば、今は亡き巨匠・黒澤明監督が1980年(昭和五十五年)に公開した映画『武者』で一般にも知名度を得、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得、世界的にも市民権を得た有名な策略のひとつです。



 信玄役にキャスティングされていた勝新太郎さんが黒澤監督と衝突して突如の降板、急きょ仲代達矢さんがこれを受け継ぎ、一介の泥棒が信玄の影武者を務め、そして死んでいくまでの経緯をドラマチックに演じ切りました。



 晩年は芸術的観念に固執し往年の実力を失ったと批判されがちな黒澤明監督作品のなかでは、今をもってしても色褪せることなく、歴史考証や小道具のリアリティに凝った黒澤作品らしい重厚な歴史物語です。

 映画『影武者』の中では信玄役をみごと演じ切った影武者ですが…実際のところ、武田信玄は本当に影武者というものを扱っていたのでしょうか。

 これまた、信玄没後四百五十年近い年月が過ぎたおかげで、実像と真相はかなり濃厚な謎と派手な脚色によって色褪せてしまってますが…調べてみると、信玄はかなりの人数を影武者として使っていたようです。


 信玄の影武者として有名な武将に信玄の次弟・武田信(たけだのぶかど)が挙げられます。

                

 信廉は信玄とは同腹、大井夫人を母に持つ実の兄弟だけあって背格好や顔立ち、声が信玄と似ていたらしく、一説によれば山本勘助の推挙によって信玄の影武者を務めるようになったのだとか。

 歌道や絵画などの芸術の才に長けた信廉は戦場に限らず一般の場でも信玄の影武者役を日頃から担当。

 他国の使者や文化人と連歌の会などを設けた際には、文字通りゴーストライターとして『信玄作の和歌』を幾つか歌ったとされるほか、かの有名な第四次川中島の合戦にも影武者として出陣、上杉謙信の単騎突撃で斬りつけられたのは実は信廉の演じていた影武者だったという巷説もあります。


 ライバルである越後の龍・上杉謙信も

                

川中島の合戦では、敵本陣に斬りこんだとき信玄坊主の顔を見て、内心"やった!!"と思った。しかし、信玄は奸智に長けたずるい奴だ。

 日頃から法師姿の影武者を何人も侍らせていると聞いている。
 もし、人違いであれば無駄に命を落とすことになるゆえ、馬から降りて組み伏せずに馬上から斬りつけるに留めたのだ。口惜しい思いをした
(甲陽軍鑑)

 と言ったとか言わないとか。( ・(,,ェ)・)


 武田信廉はその後も信玄の影武者役を続け、のちに信玄が三方が原の合戦から甲斐への帰国途中に信濃国駒場で病死すると、そこからは信玄役を勤めて躑躅ヶ崎まで無事に撤退。

 『信玄病死の噂』を聞いた隣国の戦国大名・相模北条家が信玄の顔を知っている板部岡江雪斎(いたべおか-ごうせつさい)という僧侶を使者に派遣したときにも、簾(すだれ)越しに仮病を使って謁見。

 『しわがれた元気のない声までそっくりに』信玄役を演じ切り、江雪斎はこれを完全に信玄と誤認。

 このおかげで、相模北条家ではしばらくの間『武田信玄は生きている。死亡説はおそらく、近隣諸国を油断させるための略だろう』と思っていたそうです。



 信玄の影武者役には他に信玄の甥で娘婿、信玄と容貌が良く似ていた穴山梅雪(あなやまばいせつ)や、『千変万化』と称賛された変装の名人・小笠原源与斎(おがさわら-げんよさい)、金丸虎義や長坂長閑斎といった麾下の武将のほかに小姓時代から寵愛していた高坂昌信など、影武者を勤めた人物は本当に数多く居たようです。

 以前、『武田信玄の肖像画はどれも似通っていない』ということを話しましたが、これだけの数の影武者が居れば当然、信玄の顔も第三者には特定できなかったのではないでしょうか。(;-(,,ェ)-)



■人は石垣、人は堀。けれど信玄は基本的に他人を信じないはずでは?

 『人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり』と言えば武田信玄がその心情を歌ったとされる有名な和歌です。この名台詞が示す通り信玄は生涯、領内に城を築くことが無かったと言いますが…。


 戦国大名として自信、『甲斐の虎』の武勲を誇る信玄らしいこの和歌はどうやら、後世の人が彼のイメージから編み出した架空の和歌だったようで、この歌が武田信玄作であるということを証明する第一級の資料というのは未だ見つかっていません。

 確かに人心掌握術に優れ、合戦では神算鬼謀を駆使した名将であった信玄ですが、他人を城や砦といった防御拠点の替わりと出来るほど信じることが出来る『お人し』ではありませんでした。

◆これを読めばあなたも『武田信玄』がよくわかる?

 実際、信玄時代に築かれたり改修された武田家の城というものはかなりの数があり、有名な城では第四次川中島の合戦で武田信玄が本陣拠点とした北信濃海津城、のちに信玄の四男・勝頼や五男の仁科盛信が居城とした高遠城は山本勘助が信玄に縄張り(城の設計)を任されて築城・改修したとされるほか…。

 その勘助から築城術を伝授されたとされる馬場信春も、信玄が晩年になって攻め落とした駿河国や遠江国などに江尻城・諏訪原城など幾つかの拠点を築城しています。


 なぜ武田信玄が『人をうまく信頼すれば城なんか要らない』などと言ったことになっているかは諸説ありますが、『甲陽軍鑑』のなかに信玄がこんなことを言ったと記載があります。


昔っから、武人の歴史をみても城に籠って敵に打ち勝ったケースというのは前例があまりない。

 敵に攻め込まれるような領土経営をしているようでは駄目だ。確かに、城や砦は防御・商業の拠点としては必要ではある。
 だが、その堅牢なのを頼みにするまえに自分から攻めていくらいの軍略こそ、重視すべきである。



 この言葉をわかりやすく誇大に受け取れば、さっきの『人は石垣、人は堀』につながります。

 甲陽軍鑑は歴史物語、武士の心構えの教科書として江戸時代に大ベストセラーとなったので、おそらくはこの文面を読んだ当時の読者が『古今無双の英雄・武田信玄は城なんて無粋な岩の塊に頼らなかったんだ!!』と大きく解釈し過ぎたのが真相なんじゃないでしょうか。( ・(,,ェ)・)


■"三年間の内緒"は無駄な策略?信玄が死後の武田家に託した最後の策略
 さきほど御紹介した黒澤明監督の映画『影武者』では、武田信玄は野田城を攻撃中に火縄銃で狙撃された傷がもとでこの世を去ったことになっていましたが、信玄の死因については今日でもやはり謎に包まれたままです。

 甲陽軍鑑では『"膈"(かく)という病也』、今でいえば胃癌か大腸癌が原因だと記録されていますが、他にも持病の労咳(肺結核)や腹膜炎、肝臓病、最近では日本住血吸虫(山梨県の甲府盆地を発症とする風土病、水田の巻貝などからネコ、イヌを通して人間に寄生することによって起こる寄生虫病)など、諸説さまざま。

 その信憑性などを論議するとキリがありませんので省きますが…いずれにせよ、1573年(元亀四年)四月十二日。

 『甲斐の虎』、武田大膳大夫晴信・徳栄軒信玄は信濃国(現長野県)南部の駒場にて入寂。享年五十三歳でこの世を去りました。


 さて、信玄が死の床で最後の遺言として残した言葉として有名なものが二つあります。

 一つは股肱の重臣であった山県昌景に言い残した『瀬田に武田の旗を立てろ』、瀬田は現滋賀県の瀬田ですので=ちゃんと上洛して京都に武田の旗を挙げろという最後の意思。


 そしてもう一つが後継者・武田勝頼に残した『自分の死を三年間隠して、その間は専守防衛して領内統治に努めよ』という遺言、いわば自分の死を隠ぺいするように指示したことです。


 しかし、徹底した人間不信主義と現実主義者だった武田信玄が本当に『自分の死』という戦国時代最大の事件を隠しおおせると思っていたのでしょうか。

 …――これがどうやら、信玄ってば本当に自分の死を大真面目に隠し通そうとしていたようなんです。(;・(,,ェ)・)



 武田信玄は、自分という偉大な戦国武将があってこそ、その武勲や威名があるからこそ甲斐武田家の平和が守られている、近隣諸国の戦国大名が大きな動きを起こさないということをよく熟していました。


 これは、信玄の死後家督を継承した武田勝頼と信玄時代の古い家臣達が関係悪化し家中が混乱したという話や、武田家領内の村人までもが勝頼をなめてかかり、合戦になっても『今、村から出せる若い衆は一人もいませーん♪(゚∀゚)』とか言って出兵を拒否したことを踏まえれば、勝頼には気の毒ですが間違いないことでしょう。


 信玄が自分の死を隠ぺいしようとしたことを裏付ける資料として、『元亀四年四月以降に発給された信玄名義の手紙』があります。

 まずは1573年(元亀四年)六月二十一日、相模北条家の家臣・大藤与七郎という武将あてに『信玄名義の書状』が出されています。

 この手紙には、(かおう。"書き判"とも呼ばれる、墨をつけた筆で丁寧に丁寧に書きあげたマークのこと。簡単には書けないような特殊な筆の入れ方や書き方があるので、手紙の発給者が間違いなくその人であることを証明する紋章。)がなく、『晴信という朱色の印判が押してあります。

 そして、御丁寧にも追って書き(追記)に『不例本復なく候の間、直判能わず候、意外に候(病気がちゃんと治ってないから、花押が書けませんでした。ごめんなさい)と書かれています。

 文字は右筆(ゆうひつ。戦国武将が発給する手紙を書く秘書のことで、たいていは能筆な文官が選ばれました。)が書けますが、花押は信玄本人でなくては書けないのでこんな言い訳を書いたのでしょう。



 信玄は自分の死んだあとのことを考え、『自分の署名と花押を書いた白紙』を八百余枚も残していたという話がありますが、これが本当ならばこんな他愛もないウソを書く必要はありませんよね。( ・(,,ェ)・)oO( 死んだあとまでスーパーマン扱いされるのも大変だ。)


 しかし、そうかと思えば1573年(元亀四年)七月三日付の文書(宛先が切られてて、誰宛てだったのかは現在でも不明)には

三方ヶ原で徳川家康軍とマジで喧嘩して、蹴散らしてやった。いくら首を挙げたか数えるのも面倒なほどだ!!

 と、戦勝を誇大に自慢した手紙にはしっかりと信玄の花押が書かれています。北条家には先の影武者武田信玄作戦が成功していたので、貴重な信玄花押つきの白紙をけちったのでしょうか?




 こんな感じで、偽手紙や影武者を駆使することで武田家は信玄の死を隠し続けていました。どうやら周囲には『武田信玄はまだ生きてるけど、病に伏しているから戦国武将としては引退、武田勝頼に家督を譲って隠居する』ということにしていたようです。

 1573年(元亀四年)六月二十七日付の勝頼発給の手紙は、ある武将の所領補償を約束した内容なのですが、手紙の冒頭にわざわざ信玄の花押を書いて『法性院殿(武田信玄)の直印において』と、わざわざ信玄の生存を強調しています。


こう言った、戦国武将が自分の死を隠す行為は何も武田信玄の専売特許ではありませんでした。


 たとえば、大和国(現奈良県)郡山城城主だった筒井順昭
(つついじゅんしょう 1523〜1550)は二十八歳で重い病にかかり、死をまぬがれない状況になりましたが、後継ぎである藤勝丸(ふじかつまる)はわずか2歳とてもじゃないですが家督を継げる状況にありません。

 そこで順昭、家臣達に秘策を授けます。

 『このあいだ、奈良の町で阿弥(もくあみ)
という盲目の琵琶法師にあったのだが、驚くほど私の声と似ている男だった。

 私の死後はその木阿弥をこの部屋に置き、襖越しに敵国との交渉にあたらせろ。病気だと言ってごまかして、布団の周りに屏風や簾をかけておけばバレたりしないだろう。』


 この言葉通りに木阿弥はそれから数年間、順昭の変わり身として『声だけの殿様』をつとめ…藤勝丸が元服して筒井順慶(つついじゅんけい)となり家督を相続するまで影武者を勤めたそうです。

 この間、木阿弥は殿様同然
(というか影武者ですからね)のぜいたくな暮らしが出来たそうですが、お役御免となるとまた元の通り、奈良の町で盲目の琵琶法師として過ごしたそうです。

 この故事が、『元の阿弥(もとのもくあみ)という言葉の語源となりました。

 予定だと木阿弥は筒井家の秘密を知っているため殺されるはずだったらしいので、元の木阿弥になれただけツイていたということでしょうか。




◆他にも、室町幕府管領代として京洛の都を牛耳った梟雄として知られる三好長慶(みよしながよし)も病死の際、弱冠十三歳である後継者・三好義継のことを考えて『自分の死を三年間隠せ』と指示。

 その言葉通り長慶の葬儀は死んで三年経った1566年(永禄九年)に河内国(現大阪府南東部)の真観寺で盛大に執り行われました。

 それまで間、長慶のなきがらは河内飯盛城の御体塚
(ごたいづか)という場所で塩漬けにされていたそうで、葬儀の際に棺桶のなかの長慶を見た弔問客が

『…三好長慶はん、どないな死に方したんやろ。顔がえらい酷いことになってたけど…』

 という感想を記録に残しています。




■甲斐の虎は偉大過ぎた。その死後の結末と武田家の衰亡
 武田信玄の死を隠し、甲斐武田家の安定を図った武田勝頼でしたが…上記のような涙ぐましい努力もむなしく、『武田信玄が死んだ』という噂はあっというまに日本全土を駆け巡ってしまったようです。


 まず最初にその兆候をつかんだのが、誰であろう武田信玄最大のライバルだった上杉

 有名な逸話では、信玄の死を聞いた謙信は食事中の箸を落としてオイオイと男泣きし、『わが終生最大の強敵を失った!!』と悲嘆。信玄の裳中は上杉家でも歌舞音曲、どんちゃんさわぎを禁じたという話がありますが…。

 …―――実際は『やっとあの信玄坊主がくたばった!!』と大喜びし、すぐに隣国・越中国(現富山県)への出陣を決めています。


 当時の越中国は一向一揆衆と上杉家が衝突する紛争地帯で、武田信玄は一向一揆門徒衆を後援していました。信玄の死は、越中国の情勢を一気にひっくりかえす絶好の機会だったのです。

 信玄の死によって後ろ盾を失った越中一向一揆は、まもなく軍神の突撃によって打ち滅ぼされてしまいました。


 なお、信玄が病死したのは間違いない!!と最初に気づいて上杉謙信に報告したのは、誰であろう…かつて信玄に二度の苦杯を嘗めさせた北信濃の猛将・村上義清だったそうです。

 信玄よりも十五歳も年長の義清でしたが、この頃は上杉謙信の家臣として越後根知城の城主となり、故地・川中島の奪還を夢見続けていました。川中島方面に張り込ませていた密偵がなんらかの理由で信玄病死の報をつかんだのでしょう。
■しかし、村上義清は1573年の1月1日に死んでいるので信玄の死に気付けるはずがありません。資料が義清の子・国清と勘違いしたのでしょうか?


 そして、次に信玄の死を知ったのは徳川家康、ついで織田信長。

 甲斐武田家の脅威を一番の至近距離から感じていた二人が信玄の死を悲しむはずもありません。信長は喜び勇んで岐阜より兵を挙げ、いまいましい思いをさせられていた京都室町幕府の第十五代将軍・足利義昭を追放。

 彼の後ろ盾だった越前の朝倉義景…ついで妹の嫁ぎ先であった北近江の浅井長政をも滅亡させてしまいました。

 信玄との同盟や領土条約を破られて怒り心頭になっていた徳川家康も当然、甲斐武田家に食い荒らされていた遠江や三河国の各地にある城や砦を攻略し、武田家の影響力駆逐を画策。

 武田信玄が死んだと判れば、一度は徳川家康を見捨てた戦国武将や豪族達が旗色を返して徳川家に帰参しはじめました。

 そのなかには、三河長篠城城主…武田勝頼に妻と娘を人質に出して忠誠を誓っていた奥平貞昌(おくだいらさだまさ)も含まれていました。


 この動きに刺激されて、頭にきたのが武田勝頼。

 父の死後三年間は領内統治に努めよという遺言を忘れて武田騎馬軍団を編成し、徳川家の領土に再び攻撃をしかけました。

 その怒りの矛先は当然、自分を信玄より弱いと踏んで徳川家に寝返った三河長篠城の奥平貞昌。


 躑躅ヶ崎館で人質にとっていた彼の妻と娘を血祭りにあげると、勝頼は家臣達の反対を押し切って三河長篠城に攻撃をしかけます。

 しかし、勝頼はこの時に決定的な読み違いを犯しました。長篠城なんて簡単に落とせる、信玄が死んだと思って自分を馬鹿にした武将たちを見返すなんてワケないことだと高をくくっていたことです。

 長篠城は、落ちなかったのです。



 このあと…―――長篠城を救うために援軍としてやってきた徳川家康軍、そして『火縄銃三千挺』という規格外の火力を装備した織田信長の軍勢によって甲斐武田軍の"無敵"というレッテルが、勝頼のプライドもろとも木っ端微塵に打ち砕かれたのは、歴史Fanの皆様も御存知の通りです。( -(,,ェ)-)



 武田信玄の『葬儀』は、甲斐武田家が長篠の合戦で惨敗した翌年の1576年(天正四年)四月十六日、甲斐国塩山の恵林寺で盛大に執り行われました。信玄とは生前に仲の良かった名僧・快川紹喜(かいせん-じょうき)を導師に、集められた僧侶は一千人。

 武田家の家臣達が一斉に集まった華々しい弔いのなか、信玄の棺と位牌が武田勝頼ら一族に伴われてしずしずと進む荘厳な情景には、弔問客も『武田家の威光もまだまだ大丈夫だなぁ。』と感じたことでしょう。

 亡くなってから三年間、鎧具足を着せられたまま甕(かめ)に詰められていた信玄の遺体はこれでようやく荼毘にふされ、火葬されることになりました。

 しかし、この葬儀から僅か六年後…信玄が死んで九年後には、甲斐武田家は織田信長によって滅亡させられてしまいます。



 武田信玄は、甲斐の虎は自分の偉大さとその影響力を誰よりも理解し、自分が居なくなったあとの武田家がどうなるかを…死の床でのもうろうとした意識でも、ちゃあんとお見通しだったのかも知れません。

 死後は滅んだ甲斐武田家の衰退などどこふく風、無敵の英雄としてもてはやされた信玄でしたが…――内心は複雑なんでしょうね。


 まさか、あの三方ヶ原で実力の差を見せつけて完勝した松平の子せがれ、あの徳川家康が最終的な天下人となって、今じゃ東照大権現…――とんでもない、あたしゃ神様だよ。とか言ってるだなんて思ってもいなかったでしょうから。( ・(,,ェ)・)





 けど、安心して良いんだと思いますよ信玄公。

 甲斐の虎・武田法性院信玄入道殿は、人気でもカッコ良さではぶっちぎりで、知名度では徳川家康に全然負けてないんですから。


 死後五百年以上も、日本国民にその武名を讃えられ、英雄として尊敬され続ける戦国大名の代名詞は、これからもどんな戦国武将より光輝く存在感を戦国歴史fanに知らしめ続けていくことでしょう…。




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