郷土徳島が生んだ傑 三好家と阿波公方リベンジ【前編】


当ブログを御覧になられている方にはお判りの様に、過去には周防長門も様々な企画を立案し、玉石混交・好評不評入り混じった各種歴史探求紀行を連載して参りました。

 …今回は、そんな過去の企画のなかでも、特に評価が良くなかった二つの題材について再調査し、そのバッドマークを返上する…いわばリベンジ企画を発案いたしました。


 今回選ばれたリメイクすべきターゲットは『阿波三好家終焉記および、『阿波平島公方 征夷大将軍になりたかった男達。企画。


 
 『読んでいてあまり良い気はしない、むしろ気分が悪くなる』『郷土の英雄であったはずの三好家を歴史の敗者とし、踏み台と決め付けている』などなど、頂いた御感想の内容がいちいちごもっともであることもさることながら、何より感じたのは…


 『かつて歴史の1ページを飾った、仮にも郷土の英雄であるはずの三好家・阿波公方家に対する愛が感じられない!!』ということでした。



 当ブログの看板に燦然と輝いていた『歴史探訪記』という文字。


 ただの物見遊山ではなく、歴史探訪ということは…『その出向く先である観光地の歴史を愛し、それを織り成した過去の英雄達を愛し、リスペクトすること・できること』がなにより大事なはず。


 それがなかったゆえに読後感が悪かったというのは…見知らぬ土地柄の歴史ならばいざ知らず、よりによって郷里徳島の英雄にその敬意を払っていなかったというのは、ちょっとした(何)重症ですよね。(´・ω・`)


 


 そこで、今回は…その過去に一度調査した郷里の二大英雄、阿波三好家と阿波公方家にまつわる歴史観光ポイントを再評価しなおし、『あぁ、徳島県という場所にはこんなにも地元民や歴史Fanにされる人物が居て、様々な名誉や栄光、それを支える努力があったんだな』と読んだ方々に再評価して頂けるような内容でお届けしたいと思います。


 題して、『郷土密着型歴史Fanが愛する、地方歴史観光案内』シリーズ。


 その記念すべき第一回には『阿波三好家』と『阿波公方家』をピックアップしました。最近では一大勢力になった戦国歴史Fanの皆様のあいだでもコアな人気を獲得しつつある三好家、そしてその三好家が領内に推戴した室町幕府の将軍候補・阿波公方家の魅力に再接近します。


 今回のコンセプトは歴史Fanの皆様方ですので、当然…ネットや安っぽい歴史雑誌では見ることが出来ない、もしくは注目されないような深い場所をめぐっていくつもりですし、それぞれの全企画を読んでいなくても楽しめる内容に仕上げますので、初見の方も御心配なく。


それでは、『郷土密着型歴史Fanが愛する、地方歴史観光案内』シリーズ、通称『阿波三好家・阿波公方家リベンジ』のスタートです。


■さて、最初にご案内するのは阿波平島公方に関する資料を展示した阿南市立・阿波公方民俗資料館。
















 今でも地元阿南市民に慕われている、郷土が輩出した征夷大将軍・阿波公方家に関する資料を展示しています






かつては皇太子殿下も来られたという、郷土にとっても誇りある歴史を持つ資料館でもあります。







 常設されている、阿波公方に関する展示品室。数多くの阿波公方ゆかりの品が納められています。





この資料館も、うれしいことに展示品の撮影が許可されています。ただし、フラッシュは焚かないことが御約束。






 立派な鎧兜。戦国時代後期の誂えにみえますが、説明は江戸時代とあります。

















 阿波公方三代の木像。どれも本物です。

 
多いんですよね、このての木像のレプリカを展示してるとこ。





 血を分けた祖父・父・子だけあって、良く顔が似ています。









  


 阿波公方の歴史を説明してくれるAV機器。結構古いですが、内容はかなり本格派。阿波公方の歴史を、十分ほどで丁寧に説明してくれます。

 少々、考証材料が間違ってる点(松永久秀の所領が現在の京都府全域となってた、ets)が惜しまれますが。



 かつて足利尊氏が後醍醐天皇から拝領した菊の御紋が飾られた伝平島公方館・巨大瓦


 大きさが伝わりにくいですが、実に高さが150cmちかくあります。こんな大きな瓦を屋根上に飾ることが出来た、かつての平島公方家の栄光を偲ばれます。

 阿波徳島という辺鄙な場所での亡命生活でも、源氏の誇りは忘れてなかったんでしょうね。





■阿波公方家は戦国時代以後、江戸時代も蜂須賀家統治下の阿波で連綿と血筋を伝えましたが…阿波蜂須賀家が与えた所領はわずか二百石。

 
下手な旗本の方がずっと高い給料を貰ってるような有様です。

 そのうえ、足利という由緒ある姓を名乗ることも許されず、『平島』という苗字を名乗ることを強要。

 元は尾張の土豪あがりの蜂須賀家、領内に源氏の名門が居るのがけむたくってしかたなかったんでしょうね…。







 そんなこんなで、江戸時代の阿波公方家、その暮らしはとても粗末なものでしたが…いわゆる"火の車"な公方家の台所事情を助けたのが、この『まむしよけの御札』です。


□阿波三好家・阿波公方家まめ知識@
 江戸時代なかば頃のこと、平島公方館を建て直そうと改築して床板を剥がしたところ…軒下から大量のまむしやヘビの骨が出土するという事件がありました。

 これに驚き、崇敬したのが地元徳島の民。

さすがは室町幕府将軍家の末裔、その威光にはマムシすらも命を落とすのか!!』…と大評判になり、山深かった阿波に住まう民達はこぞって平島公方家からヘビよけのお札を購入。おかげで、公方家も少しは溜飲が下がったのではないでしょうか。


 しかし、この風習も例によって阿波藩蜂須賀家が煙たがり、『そんな効力は無いから、あんなまやかしを買ってはいけない!!』と釘を刺したんだとか。

 ( ・(,,ェ)・)地元の殿様ながら、案外と姑息なことしますね蜂須賀家。


 

 しかし…そんな迫害にもめげず、健気な公方様は頑張ります。

 かつては征夷大将軍を輩出した源氏の名門を誇りに思ってか、阿波公方家は詩歌や学問の研究に力を入れ、栖龍閣(せいりゅうかく)という学問所を創設。



 この学問所からはたくさんの文化人が育ち、阿波公方家の名声も蜂須賀家の思惑とは裏腹に高まっていきました。



□阿波三好家・阿波公方家まめ知識A
 阿波公方家が作った栖龍閣でしたが、最後の当主・足利義根が京都に去ったあとは学問所も衰退し、木版印刷で発刊した書籍も時代と共に散逸してしまった。

 この資料館が建った頃には、既に栖龍閣由来の書籍はもはや国会図書館に一冊しか残っていないという有様でしたが、ある方が何と東京の古書店街から奇跡的に一冊の書籍を発見!

 それが寄付されて…こうして資料館の一角を飾っている。まさしく、縁は異なもの味なもの。これも阿波公方家の威光がなした奇跡でしょうか。




 阿波平島公方家の漫画が展示されてました。

 内容は著作権に抵触するのでだめですが、なかなか立派な装丁で…某デビルマンを書いた作家さんを彷彿とさせる絵柄や、物語も熱がこもった、郷土愛と気合にあふれたものでした。
( ・(,,ェ)・)



 出水康生(いずみやすお)先生の本も発見。



 何、そんな人知らないって?( =(,,ェ)=)



 徳島県が生んだ戦国武将・三好長慶(みよしながよし)の生涯を記した書籍を多数出版し、『三好長慶を是非大河ドラマに!!』と毎年運動を続けている郷土史研究家の方です。



 もうかなりお年を召されてますが、定期的に大阪や兵庫の三好家関係者と連携を取り、もう随分と長い間と運動を続けてらっしゃいます。

 もし三好家が大河ドラマ化すれば、間違いなく阿波公方家も脚光を浴びるはずで…。


 三好長慶の生涯は、今流行りの『江姫』なんかよりもずっとずっとドラマチックですので、個人的にも賛成なのですが…なかなか、熱心な勧誘活動や郷土愛だけでは、大河とかにはつながらないのが悔しいところ。

 これらの阿波平島公方に関する書籍や冊子は、事務所で販売中です。




そしてこの資料館のもうひとつのウリが、この民俗資料の数々。

















 平島公方家とは直接関係はありませんが、明治〜昭和初期に関する古い民俗資料がガラスケース無しのままで展示されています。







 歴史の教科書や参考書でしか見たことがない、本当に多種多様の民俗資料が所狭しと並ぶ光景は、この阿波公方民俗資料館独特のものです。




 この貴重な品々…ケースがないおかげで実際に掌にとって、触れて確かめられるのが嬉しいところ。


 アンティークな明治〜昭和初期の生活雑貨品から、江戸時代の農民が実際に使用した物品まで。



 本当に色んな品々が取り揃えられてます。こんなに無造作に置いて、良く盗難に合わないなって危険に思うほどですが…



徳島の人って言うのは素朴で正直な気質らしく、こんな感じでも盗難は起きたことがないそうです。










 阿波公方家の歴史だけでなく、近世庶民の生活の歴史にまで触れられて、感じられる場所。




郷土徳島の歴史に密着し、時代の流れや過去の遺物に郷土民の想いを知ることが出来る、阿波公方民俗資料館でした。











■阿南市立・阿波公方民俗資料館

【ホームページ】
http://www.city.anan.tokushima.jp/docs/2010102400231/

【住所】
阿南市那賀川町古津339−1【пz0884-42-2966

【交通アクセス】
JR西原駅から徒歩15分。JR阿波中島駅からタクシーで5分。道の駅公方の郷から車で3分。

上記ホームページ内、もしくは
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/tokuhakukyo/map/nakagawa.htm
参照ものこと。

【駐車場/料金】あり・28台/無料

【開館時間/料金】入館料:大人200円、中学生以下無料
 団体(20人以上)及び法人 100円 
 ●休館日:月曜日・国民の祝日・年末年始(12/29〜1/3)
 ●開館時間:9時〜16時30分(入館は16時まで)

【バリアフリー施設】
民俗資料館入り口には車椅子に乗ったまま階段を上り、館内に入ることが出来る施設が併設されており、また車椅子一台を常備。

身障者用トイレ× 館内エレベーター× ただし両階とも車椅子に乗ったまま見学可能。







              


 さて、民俗資料館を出てお次に向かう先は国道55線沿いにあるドライバーのオアシス、『道の駅・公方の郷なかがわ』。

 阿波平島公方企画の際、地元民が郷土が輩出した征夷大将軍を敬慕するために元からあった道の駅を改称したものです。


 『阿波平島公方 征夷大将軍になりたかった男達。』企画において、地元の人達が元からあった道の駅を改称することで阿波公方への敬慕の念を示した、と紹介しましたが…。



 …――言うだけ言っておいて、実はまだ行ってませんでした。



 公方の郷なかがわ遠望。ちょっと周囲が殺風景なのは、敷地の大半が現在工事中のため。



 海と山に囲まれた風光明媚な阿南市らしく、直売所には地元の生鮮野菜や海産加工物がおもとめ安い価格で集められています。

 
 阿南市名物、割り竹細工。

 これは阿波踊りの人形ですが、阿南市が生んだ世界的な発明・青色発光ダイオードが埋め込まれたものもあります。



 緻密に組み込まれた竹細工の人形は、今にも踊りだしそう。





 阿南市だけでなく、徳島県南や県西部の土産物も陳列されています。木頭村の特産品・ゆずを使った各種みやげもの。


 公方の郷と銘打っていますが、三代続いた阿波公方を宣伝顕彰するものはまばらなご様子。

 聞けば、今の工事が無事に終れば阿波公方にまつわる展示や建造物が作られる予定なんだとか。






 
 阿南市の特産品や名物を眺めながら、暫しの休憩。


 郷土徳島の歴史に燦然と輝く阿波公方家を賞賛し、地元道の駅を改称して郷土愛を示した那賀川の郷土民の想いを五感で楽しむことが出来る、道の駅『公方の郷・なかがわ』でした。






■道の駅・公方の郷なかがわ
【ホームページ】
http://www.skr.mlit.go.jp/road/rstation/station/nakagawa.html【住所】
【пz0884-21-2631
【交通アクセス】アクセス:JR西原駅から徒歩15分。JR阿波中島駅からタクシーで5分。詳しくは上記ホームページを参照のこと。

【駐車場/料金】あり.大型5台普通車77台身障者用2台/無料

【施設営業時間】
喫茶コーナー:午前9時〜午後4時30分
産直市:午前9時〜午後5時
(駐車場・トイレは24時間)

【開館時間/料金】
喫茶コーナー:毎週月曜日
産直市:毎週水曜日

【バリアフリー施設】
身障者用トイレ○ 館内エレベーター(平屋) 車椅子に乗ったまま入場可能。






■さて、お次はいよいよ前編最大の見所・阿波一宮城址です。

 企画『阿波三好家終焉記』に登場、阿波の大名だった三好長治を土壇場で裏切った一宮成祐(いちのみやなりすけ)ら一宮家が築いた山城です。

 ほとんどの城跡が中世〜近世での開発で遺構を失っている徳島県では珍しく、かなり保存状態の良い戦国時代の城跡が残されており、現在は『東山渓自然公園・一宮城址』として整備され、山の頂上にある本丸跡地まで山歩きで登ることが出来ます。




 一宮城址は、徳島市・一宮神社の直ぐ裏手側にあります。


 一宮家はこの一宮神社の宮司を務めた一族で、本姓は小笠原家。三好家と同じ、信濃源氏の血を引く由緒ある戦国武将です。

 一宮神社。

 延喜年間…今から千年以上も前に整備された神社仏閣のひとつで、由緒ゆたかな古刹が多い徳島県下らしい、歴史深い神社のひとつです。







 静かな境内。一宮城を築いた一宮一族はこの神社の宮司を務め、地元郷土民の崇敬を受けました。
















 道路を挟んだ向かい側は、四国八十八箇所第十三番札所・大日寺


 静かな春風が境内の木々の葉を囁かせる音に混じって、お遍路さんの聖詠の声が聞こえてきます。





 



三好・足利一族を再評価する旅が無事に終ることを願って、参拝をすませたら…さっそく境内の裏手側、山裾から一宮城址を目指して物見登山を開始します。


 一宮城址の俯瞰地図。かなり広範囲に渡って遺構が保存されているようです。















 コンクリート打ちだった山道はいつしか、天狗の高下駄のような石段に。


 これ、割りと足元に注意を要する代物です。
 なんでこんな危険な石段を組んだのでしょうか…。









 神宮寺跡。山裾にお寺があったようです。

 この附近を開墾中に青銅製の経筒が発掘されたことが、近くの立て看板に記載されています。























■戦国時代期、この城を治めた一宮(小笠原)(いちのみや(おがさわら)なりすけ)は元々阿波守護職・細川家に仕えていましたが、その細川家が三好家によって衰退すると、ホイホイ三好家へと転仕。

 ひきつづき一宮城城主として従うことになりました。

 正室は三好長慶の妹をめとり、その待遇は三好家一門衆。

 阿波勝瑞館を拠点に阿波を支配した三好義賢は義兄弟の関係となります。













 しかし、三好長慶が没すると阿波の平和は乱れ、土佐の長宗我部(ちょうそかべもとちか)の侵略を受けるようになります。

 一宮成祐は三好家総領が器量の乏しい三好長治となると徐々に心離れを起こし、最後には義理の甥である長治を見捨てて長宗我部家に寝返り。


 結果的に、その三好長治を死に追いやることとなりました。















 竪堀、とあります。


 看板の横、傾斜のきつい山肌をよーく見ると…確かに空堀と思しきくぼみが長く続いているのが判ります。














 高知県の岡豊城跡でも見かけた城砦建築法ですが、同じものを徳島県で見られると、『岡豊城みたいな、りっぱなお城が徳島県にもあったんだなぁ』と再確認、同時になにやら感慨深いものが…。



 倉庫跡。

 
倉庫の礎石だったと思われる四角い石基盤が残されています。

 戦乱の火災で焼け落ちてしまったそうですが、つい最近まで雨が降ったあとにここを訪れると、焦げて黒くなった麦を見ることが出来たそうです。







■さて、長宗我部家に寝返った一宮成祐でしたが…――その末路は因果応報、悲惨なものでした。

 ある日、元親から祝宴に招かれた一宮成祐。


『へえ、元親さんが俺の為にパーティねえ。嬉しいじゃないの。』


 呼ばれるままに彼の元へ向かいましたが…。




 ん、ナニ。そのパターンは前にも聞いたことがある?



 …ご明察。

 長宗我部元親は一宮成佑に一宮城のような要衝を任せるつもりは毛頭もなかったんです。

 例によって、酒に泥酔した成祐は長宗我部家の刺客に襲われ、あっけなく命を落としました。
 変節漢の末路はかくのごとし。

 この城は元親の外交参謀・谷忠澄(たにただずみ)が統治することになりました。
 



  結論、長宗我部元親に『酒、飲まねえ?』と声を掛けられたら、極力お断りすること。( =(,,ェ)=)











 曲輪(くるわ)跡。

 
ここに、本丸より前衛守備拠点にあたる曲輪があったのでしょうが…なにせこの通り、白い看板に男らしく『曲輪』としか書かれていないので、由緒や歴史を知ることは出来ません。















 財蔵丸曲輪(ざいぞうまるぐるわ)。

 堀切によって鋭く切り開かれた山腹の途中にあり、こちらも独立した曲輪として敵襲から本丸を守っていたようです。























 ここにはコンクリート製のベンチと展望台が設けられており、遠い彼方に徳島市の眺めを見ることが出来ます。



 門跡。


 確かに、ここで山道が一度狭くなり、囲うような礎石が残されています。

 かつてはここに、登城したものを見下ろす黒塗りの城門が築かれていたのでしょう…。







■長宗我部元親の侵攻に屈し、占拠された阿波国。

 しかし、その長宗我部家の栄華も長くは続きませんでした。

 天下人・豊臣秀吉に目をつけられ、領土割譲を迫られたからです。常日ごろから反秀吉派として活動してきた元親、これに悠然と立ち向かいます。

 しかし、気合だけでは勝負事には勝てません。


 上方で近代戦に慣れ、当世具足と火縄銃で完全武装した豊臣家の四国征伐軍は長宗我部家の武勲を圧倒し、元親は四国各地で連戦連敗、こてんぱん。

 一宮城もまた、城主谷忠澄が降伏開城。豊臣軍の手に落ちて…それからどれほども経たないうちに、元親も秀吉の軍門に下ることとなったのです。



■四国征伐終了後、阿波国に封ぜられたのは蜂須賀(はちすかいえまさ)。


 豊臣秀吉が若き頃より右腕として頼みにし、竹中半兵衛と並ぶ側近中の側近として重用された蜂須賀小六の嫡子でした。

 1585年、蜂須賀家政はこの阿波一宮城に入城し、阿波蜂須賀藩の歴史が始まった、のですが…。













 時は既に戦国時代も終盤の安土桃山期、防御重視の峻険な山城は時代遅れと言われたころ。

 登ってみたらわかりますが…敵もこないとわかりきってるのに、こんな山の上に本拠地なんておくこたぁないんですよ、確かに。


 1586年、僅か一年後には蜂須賀家政もこの山城を捨て、新たに徳島城の築城を開始。 完成後にはそこに本拠を移し、一宮城も1638年、徳川幕府の一国一城令により廃城。

 …こうして、一宮城は数百年の長きにわたる歴史に幕を閉じました。




 さっき見かけた『頂上まであと500m』が嘘のように長く険しかった一宮城址の道も、遂に上り坂が終り…そこに、巨大な石垣が出現しました。



 …阿波一宮城城址、本丸跡に到着です。




 徳島の片田舎に突如として出現した、緻密な石垣。




 最近、国宝姫路城・そして大阪城と国内トップクラスの石垣積みを見てきたせいか、ちょっと迫力に欠けるような雰囲気もしますが…。






 それでも、月日の綻びや苔の跡が古い時代を偲ばせる石垣と徳島市の遠望は意趣深いものがあります。






 錐を刺す隙間もないほど正確な姫路城、畳三十三条もの広さがある超巨大石を見事に研磨して組み込んだ大阪城、そのどちらでもない…戦国時代の荒々しい山城の気風を漂わせる石垣。











 城としての役目を終えて四百年近い月日が経っていますが、それでも長年の風雨氷雪に耐え、その威容を維持し続けてきました。









 阿波守護細川家、三好家、長宗我部家、そして蜂須賀家。

 百数十年の長きにわたって続いた戦国時代、その歴史のなかで常に阿波国の要衝であり続けた一宮城址、その本丸のあった跡地に立って眼をつむれば…


 乱世の勝者達が、ここから阿波の国の風光明媚な情景を遠望している姿がまぶたに浮かんでくるかのよう。




 明治維新で徳島城が廃棄され、鷲の門以外は完全に姿を消した徳島市で…一宮城址は、阿波国にあまたの戦国大名が興亡し、勝者と敗者の歴史が紡がれてきたことを今日も無言のままに、静かに語りかけています。




 郷土徳島の戦国時代、阿波三好家の栄光と凋落の歴史があったことを知る証人として徳島市に威容を伝える一宮城址でした。





■一宮城跡
【住所】徳島県徳島市一宮町西丁244(参考・一宮神社住所)

【地図】http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.0340876775302&
amp;lon=134.46313420796918&z=15&mode=map&pointer=on&datum=wgs&
amp;fa=ks&home=on&hlat=34.03408767753021&
amp;hlon=134.46313420796918&layout=&ei=utf-8&
amp;p=%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%9F%8E%20%E5%BE%B3%E5%B3%B6


【交通アクセス】
車でのアクセス
徳島自動車道 徳島IC → 国道11号 → 国道192号 → 徳島県道207号 → 徳島県道21号






【駐車場/料金】なし/一宮城址のある山の麓に一宮神社があり、そちらで一台分だけ駐車場が準備されている。小用100円、それ以上の駐車はそれぞれ昼夜300円の御布施が必要。

【私見/城跡としてのランク】ランク☆☆☆☆★。(5つ白星満点)
 頂上まで登りつめるにはちょっとした山歩きを要しますが、県庁所在都市・徳島の片隅で開発による破壊を免れて遺構を留め、戦国時代の偉容を偲ばせる見事な石垣積みを眺めることが出来るのはこの一宮城址くらいでしょう。


■ただし、城への登山は上記看板のある正面口から行ってください。一宮神社の裏手からも頂上本丸跡までたどり着けるのですが、そちらは殆ど獣道同然で整備がされていません。


 道もすべりやすく急傾斜で、途中で転んだりすると冗談抜きで遭難しかねませんので、本丸までたどり着いたら本丸背後の山奥に抜けずに、来た道を逆戻りすることを強くオススメいたします。

 いちおう四国八十八箇所の遍路道にはなっていますが、山登り向け装備じゃないと、ホントにしゃれにならない険しさです。(;=(,,ェ)=)


郷土徳島が生んだ英傑 阿波三好家と阿波公方リベンジ【後編】へ





■前に戻る    トップへ戻る