紹介 三好四兄弟 〜ぶしょうしょうかい みよしよんきょうだい〜

 

 

 


 


三好長慶 ミヨシナガヨシ (1523〜1564)
管領細川家家臣。後に室町幕府管領代、山城・摂津・丹波国守護代。
歴々の管領細川家に重臣として仕え、阿波国守護代として権勢を振るった三好元長ミヨシモトナガの長男。
幼名は千熊丸、通称孫次郎。初めは名乗りを利長トシナガと称し、次いで範長ノリナガを名乗った。
名乗りの長慶は「ちょうけい」とする説もあるが、ここでは訓読である「ながよし」を推す事にした。
官途受領は修理大夫・筑前守。

阿波三好家は清和源氏・信濃小笠原氏の後裔で、鎌倉時代に
小笠原長清オガサワラナガキヨが阿波国守護に任じられ、その子孫が阿波国西部・三好郡に土着し
三好姓を名乗った事に端を発する歴史の長い一族で、
室町時代は阿波守護職・細川家の重臣として守護代を歴任し、阿波国内に勢力を誇っていた。
しかし、戦国時代に入ると三好家の権勢は足利将軍家や管領細川家にも畏怖・警戒の対象とされ、
三好家はたびたび主家・管領細川家の謀略に遭い、その勢力を削られていた。

長慶の曽祖父・三好之長ミヨシユキナガは主家・細川家に討たれており、父である元長も
1532年に主君細川や其れに讒訴した木沢キザワナガマサ・三好ミヨシマサナガらに討たれ、
長慶はわずか10歳で、三好家総領の家督を後継する。
そして父の死の2年後の1534年10月頃、木沢長政の斡旋で細川晴元の被官(家臣)となった。

だが主君と仰いだとは云え、晴元らは父の仇である。長慶はこの恨みを忘れてはいなかった。
三好家総領として勢力を蓄えながら成長した長慶は、細川政権下で次第にその頭角を現し
主家・管領細川家に河内17箇所代官職を要求してこれが受け入れられないと見ると
軍勢を率いて阿波より上洛し、管領細川家の咽喉元に叛乱の刃を突き立てるに至った。
その鎮圧に手を焼いた管領細川家は近江守護職・六角定頼ロッカクサダヨリに講和仲介を依頼、
長慶はその斡旋を受けてようやく兵を引き、摂津守護代として摂津越水城セッツ コシミズジョウ を獲得する。

1541年に管領細川晴元と河内守護代・木沢長政が仲違いすると、長慶は晴元側に参戦。
翌1542年には三好政長、畠山稙長ハタケヤマタネナガらと共に河内太平寺カワチ タイヘイジ にて
木沢長政軍に大勝し、父の仇の一角である木沢長政を敗に追い込む事に成功する。(太平寺合戦)

1548年にはいると今度は三好政長が長慶の勢力を恐れ、管領・細川晴元にこれを讒訴。
これに対し長慶は、かつて晴元と幕府の実権をめぐって争った前管領・細川高国ホソカワタカクニ の
養子である細川氏綱ホソカワウジツナ を擁立し、遂に晴元に対して挙兵する事となった。
翌1549年には、摂津江口の合戦において三好政長軍を撃破、仇敵・政長をち果たした。

この後、長慶は足利方の刺客に襲われ瀕死の重傷を負うが、進撃の手を緩める事無く晴元を猛追し
これに驚いた晴元は室町幕府13代将軍・足利義藤アシカガヨシフジ(後の義輝ヨシテル)を擁して
近江国に逃亡。これを以て細川晴元政権は崩壊し、長慶軍は氏綱を管領として京洛を占拠した。

1552年には近江守護職・六角義賢ロッカクヨシカタ(定頼嫡子)の斡旋により晴元・義輝と和睦。
長慶は御供衆(オトモシュウ。将軍の直参・側近職)に列せられ、細川晴元は剃髪・隠居して若狭国に退去。
細川氏綱が管領細川家家督を相続、将軍義輝より正式に管領に任ぜられた。

以降、長慶は細川氏綱の管領代(カンレイダイ。管領の補佐職だが、正確には室町幕府にこういう職位は無い)
として管領を傀儡として室町幕府を実質的に支配するようになる。
1553年には再び晴元・義輝と戦い、両者を再び近江国に追放。この際に摂津芥川城セッツ アクタガワジョウ を
攻略して本拠地と定め、1560年に河内飯盛城カワチ イイモリジョウ に移るまで同城を居城とした。

以後が長慶を頂点とする三好氏の最盛期で、三好家の支配範囲は山城南部、摂津、丹波南部、
和泉北部、淡路、阿波、讃岐、播磨南東部、伊予東端の九カ国に達した。
長慶は自ら裁許状を発給し、人足徴発・棟別銭等の賦課を行い、独自の権限を京畿に発している。

1561年には長年の政敵であった細川晴元を摂津普門寺セッツ フモンジに幽閉。
晴元の嫡男・六郎(細川信良)を傀儡総領として据え、元管領細川家の政治的勢力を失墜させるに至った。
此れを以て、長慶はかつて父を討った敵たち三人全ての排除に成功する。

しかし。・・・この年から長慶は、数多くの不運に見舞われる事となる。

1561年に四弟・十河一存ソゴウカズマサ が合戦の傷が元で病を得て
翌年1562年には最も信頼していた次弟・三好義賢ミヨシヨシカタ が和泉久米田において畠山軍と交戦して
紀伊根来衆の銃弾に貫かれて不慮のを遂げる。
さらに翌年の1563年には、期待をかけていた嫡男・義興ヨシオキが急な病を得て(暗殺説もある。)
信頼していた一門衆のうち続く不幸に長慶はすっかり落胆、覇気を失ってしまい
その衰えは重臣・松永弾正少弼久秀の台頭を許す事となり、三好家凋落の序曲となった。

1564年には最後に残った三弟・安宅冬康アタギフユヤス をも『謀反の兆しあり』という
松永久秀の讒言(ザンゲン、根拠の無い悪口)を間に受け、
冬康が飯盛城に登城した処を刺客に襲わせ、此れをしてしまう。

そして1564年7月。弟も我が子も全て失った長慶は病床の末、居城・河内飯盛城でこの世を去った。
享年43歳。その死に様は発狂したも同然とも取れる、幕府の実力者らしからぬ哀れなものだったという。

三好家家督を継承したのは養嗣子・三好義継ミヨシヨシツグ (四弟・十河一存の実子)であったが
長慶死去当時まだ13歳と云う幼少だった為、長慶の死は3年の間秘されたという。
葬儀は1566年(永禄9年)6月24日、河内真観寺にて所縁の者達が拠って行われた。
法名は『聚光院殿前匠作眠室進公大禅定門』。墓所は、葬儀のあった河内真観寺の他にも
京都府大徳寺内塔頭・聚光院に、分骨墓は徳島県三野町・瀧寺に所在している。

まるでピカレスクロマンを絵に描いたようなドラマチックな人生であったが、
朝廷や商業都市・堺の利用価値に着目し、キリスト教にもいち早く理解を示すなど
先見の明を持ち、また詩歌・茶道にも通じた当代一流の文化人でもあり、
戦国大名としてもかなり良い所まで昇ったにもかかわらず、その知名度は
ご当地である阿波徳島でも、かなり低いと言って良い。・゚・(ノ(,,ェ)`)・゚・。

おそらく、よく話題になる織田信長や豊臣秀吉の時代よりも少し前の人であり
彼らとの接点がまったく無い事や、後に阿波国を支配した蜂須賀家が領内統治を容易にするため
三好家の遺徳や歴史を霞ませ、抹消せしめた事が一番の大きな原因だと思われる。

当コーナーでは、『長慶公戦記』と題する通り問答無用の主人公。
歴史上の鬱憤がたまっているせいか、突っ込みはかなり厳しい。
武勲よりお笑いを重視する三好三人衆にとっては、主君である前に一番の天敵。(苦笑
上記の様な不遇の史実を覆すべく天下統一を狙うが、何と言っても
一番の大敵はその短すぎる寿命にある。・・・果たして、存命中の天下統一は成るか。



三好義賢 ミヨシヨシカタ (1527〜1562)
長慶の次弟。幼名は千満丸、名乗りは之康ユキヤス・之虎ユキトラ・元康モトヤス・義賢ヨシカタ。
一般では号である物外軒実休 ブツガイケンジッキュウを簡略して休」ジッキュウという名前で呼ばれる。
官途受領は豊前守。

当初は阿波守護職・細川持隆ホソカワモチタカに被官として仕え、1539年には伊予の河野通生コウノミチナリと合戦。
1542年には讃岐雨滝城サヌキ アマダキジョウ に安富盛方ヤストミモリカタを攻めて武勲を挙げた。

兄長慶が父の敵・細川晴元ホソカワハルモトと戦いを始めると兄長慶の求めに応じて
1546年阿波・淡路両国の軍勢を率いて畿内に進出し堺に上陸。
1547年には摂津舎利寺セッツ シャリジ にて河内守護代・遊佐長教ユサナガノリ に大勝する等の武勲を挙げた。
長慶が畿内に進出した後も阿波国を良く統治し、長慶に最も信頼された。

1553年、主君・細川持隆が阿波に亡命していた足利義冬アシカガヨシフユを次期室町幕府将軍に擁立し
幕府の実権を握ろうと目論んだが、義賢はこれに反対して持隆の子・細川真之サネユキを擁して挙兵、
持隆を阿波見性寺にて自害に追いやり、同時に
阿波統治における要点であった勝瑞城ショウズイジョウを獲得、阿波における三好家の支配権を確立する。

なお、この際に義賢は細川持隆の愛妾で傾国のと名高かった小少将コショウショウを略奪し
自身の妾としている。この小少将は先述した細川真之の実母で、義賢との間にも
嫡子・長治ナガハルを儲けている。真之と長治は後に、阿波の覇権を巡って相争う事になる。
また小少将自身も政治に口を挟んで細川持隆を足利義冬アシカガヨシフユ の擁立・上洛へと奔らせ
義賢との対立やその後の阿波見性寺における身の破滅を御膳立てしたり、
義賢の死後には阿波統治における要人で義賢の重臣であった篠原長房シノハラナガフサの弟
篠原自遁シノハラジトンと浮き名を流して篠原兄弟の相克を生み、遂には自遁の讒言による長房誅殺の
原因となる等、阿波三好家にも大いなる災厄をもたらしている。
当に、傾国の美女であると言えよう。

1558年には河内守護職・畠山高政ハタケヤマタカマサ を河内高屋城カワチ タカヤジョウ に攻めてこれを紀伊に放逐し
同城を自身の新たな居城とし、自治貿易都市・堺との交流を深めた。また、自身も
武野紹鴎タケノジョウオウ・千利休センノリキュウ らに師事して茶道を修め、当代屈指の数寄者として名を上げた。

彼が所持した”唐物三日月茶壷カラモノミカヅキチャツボ ”はかつて足利義政も所持したという大名物で、
義賢の死後にひびが入ってしまい質入れされたが、それでも三千貫という破格の価格がついたという
本朝無双、天下一と称された代物であった。(なお、購入したのは三好三人衆の一角・三好政康ミヨシマサヤス。
次いで三好康長ミヨシヤスナガの手に渡り、彼から織田信長に献上され、最後は本能寺にて業火に消えた。)


その後も長慶の為に近畿各地で戦いを繰り広げ、阿波国・伊予国東端の支配権を確立。
1561年に四弟・十河一存ソゴウカズマサ が急逝の後は讃岐国支配と和泉・河内両国の軍事権も担当し
三好家の軍事統帥権を一手に掌握する重要な地位を担ったが、
1562年、河内国奪還に向けて襲来した畠山高政・根来寺衆連合軍と和泉久米田イズミ クメダ において
合戦した際に急襲を受け、一次は逆襲して優位に立ったが、本陣が手薄になった処を突かれて
根来衆の往来右京オウライウキョウ が率いる鉄砲隊が放った銃弾に倒れ、不慮の戦死を遂げた。
辞世の句は、次の通り今の世に伝わっている。

草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 
        報のほどは 終にのがれず


(夜のうちに雑踏の草を枯らせた冬の霜柱も、朝陽に照らされると溶けて消え行くように
  主君の細川持隆を討った私も、とうとうその報いから逃れることは出来なかった・・・。)

彼の死は兄長慶を大きく落胆させ、その後の三好家崩壊の序曲となった。

当コーナーでは主人公である兄・長慶を補佐する家臣団筆頭的地位にあるが、
その肩書きに 反しておちゃらけた軽い性格で、C調ちっくなキャラクターを演じる。^^;



安宅冬康 アタギフユヤス (1528〜1564)
長慶の三弟。通称神太郎、一舟軒鴨冬と号する。官途受領は摂津守。
淡路水軍の頭領・安宅秀興アタギヒデオキの養子となって安宅姓を称したとされているが
近年になって発見された熊野水軍に関する古文書『安宅一乱記』アタギイチランキ によると
冬康は三好元長の三ではなく安宅水軍宗家の頭領・安宅実俊アタギサネトシ の次男で、
いったん三好家に入嗣した後に再度、淡路炬口城アワジ タケノクチジョウ 城主であった安宅秀興の養子となったと
されており、この説を採るならば、長慶・義賢らは実兄では無い事になる。

淡路由良城アワジ ユラジョウ を居城として淡路水軍を統括して、東瀬戸内海・紀淡海峡の制海権を確保して
自治貿易都市・堺の咽喉元を抑え、兄が父の仇・細川晴元ホソカワハルモトと戦いを始めると河内に出陣、
晴元方である河内守護職・畠山高政ハタケヤマタカマサと幾度も戦った。
1562年の久米田合戦では、総大将である義賢が討死し混乱する三好軍を良く統率し
一度は阿波に退却するも、同年6月には弔い合戦で畠山高政軍を撃破、
河内岸和田城カワチ キシワダジョウ を奪取する武勲を挙げている。

兄義賢に似て茶の湯を好み、堺の自治商人・津田宗達らと茶会を催した。
また和歌や連歌、堺流および飛鳥井流の書にも長じる文化人であり、
常に軍を率いて紀淡海峡を渡海する必要性に迫られていた三好一族にとって
瀬戸内海の制海権を握る安宅水軍の存在は全くの不可欠であった。

三好家内に置ける発言力は義賢に匹敵する相当なもので、
兄長慶が誤った行動を取ろうとすると諫言を行い、良く兄を補佐した。

しかし、弟達や長男を失いすっかり落胆してしまった長慶は次第に覇気を損ね、
冬康の言葉に耳を貸さなくなり始めた。それに追い討ちをかける様に
三好家中でも大きな権勢を誇るようになっていた奸臣・松永弾正久秀が
『冬康に謀反(反)の兆しあり。』と讒言、
日頃から冬康から耳の痛い事ばかり聞かされて、冬康を疎ましく思い始めていた長慶は
その妄言を難なく信じ込んでしまい、精神憔悴した末、終に弟の粛清を決断。
1564年、冬康は長慶の居城・河内飯盛城に登城した処を襲われ、されてしまった。
辞世の句は、次の通り今の世に伝わっている。

いにしへを 記せる文の あともうし 
        去らずばくだる 世とも知らじを


(古の先人が遺した書物に『引き際を知らない者は、いずれ滅ぶ。』と記してあったが、
  私にもその言葉の意味が・・・今になって、ようやく理解できた・・・。)

今まで協力してきた弟達を失い、たった一人残った弟に裏切られた(と思っている)長慶が
病の末狂死したのは、その間も無く後のことであった。

しかし、近年の研究では冬康の粛清後も嫡子・安宅信康アタギノブヤス や次男の清康キヨヤス が
誅戮されていないことや信康が何のお咎め無しに家督の相続を許されている事、
三好家における安宅水軍の重要性などから、とてもでは無いが
冬康が粛清されたとする向きは考えにくいとする説が浮上している。
実際、冬康ほどの大身の武将に主君が粛清を試みんとしている兆候・情報が
登城の寸前まで秘されるという事自体、非常に考えにくい。研究の進展が待たれる処である。

当コーナーでは史実と同じく、兄長慶を補佐する堅物を演じる。
しかし、惜しいかな他の兄弟達と違い冬康のステータスはかなりこじんまりとした、
特徴の無い地味な能力の持ち主である。果たして、彼は三好家を救うことが出来るのであろーかっ。



十河一存 ソゴウカズマサ (1532〜1561)
長慶の四弟。通称又四郎、名乗りは長正ナガマサ、之虎ユキトラ、一存カズマサ。
名乗りの読みは「かずなが」とする説があるが、当項では養子・存保マサヤスにならい
「かずまさ」説を推す事とする。官途受領は左衛門尉、民部大輔、讃岐守。

讃岐の豪族・十河景滋ソゴウカゲシゲの養子となって十河姓を名乗り、讃岐十河城主となる。
東讃岐を支配して讃岐国における三好家の支配確立に努め、備前国にも進出したが
香川・香西・植田氏といった讃岐の諸豪族達は細川京兆家や伊予の河野氏らの下に
集合離散を繰り返した為、その統治は非常に不安定であった。

しかし、兄長慶が父の仇である細川晴元と戦いを始めると讃岐衆を率いて摂津に進出、
畿内での合戦や讃岐平定では兄達を凌ぐ勲功を重ね
1549年摂津江口の合戦においては父・元長を討った仇敵の一人である
叔父の三好宗三ミヨシソウザン(政長マサナガ)を討ち取るを武勲を挙げ、二人の兄を差し置いて勲功第一とされた。

また、讃岐池内城主寒川元政サムカワモトマサとの合戦にて左腕を負傷した際には
傷口に塩を擦り込んで消毒し、藤蔓でぐるぐる巻きにした後何食わぬ顔で戦闘を続け、
やがて勝利を得て平然と帰陣してくる
と言う強靭な離れ業をやってのけ
その容貌魁偉な大丈夫振りは世上の人達に十河』『十河と畏怖された。
また、兜を被った際の湿気や汗の蒸れを防ぐために月代を広く、四角く剃り込んだ一存の独特の髪型は
『十河額』と呼ばれ、平和になった江戸時代に若い侍達の間で広く流行した。

また、一存の室は関白九条稙通クジョウタネミチ(1507―1594)の女とされているが、この九条稙通
「お金が払えないから」という理由で関白職を放り出したり、後に上洛した織田信長が拝謁した際
『上総介か、上洛大儀。』とだけ言い放ってプイと後ろを向いたり、さらに後に
羽柴秀吉が藤原姓を名乗りたいと申し出た時にはその要請を突っぱねたりと、なかなか
公家らしからぬ武勇伝が数々伝わる人物である。この舅にしてこの婿あり、と言うべきか。

1560年には畠山高政ハタケヤマタカマサ を河内国より撃ち払って河内岸和田城主となり、堺所司代職に就任。
河内・讃岐の軍事指揮権を掌握し、その武勲と剛勇振りは近隣に広く鳴り響いた。

しかし、数々の合戦で名を馳せた鬼十河も病には勝てず。
1561年になって瘧(オコリ。間歇性の高熱・出汗・戦慄悪寒が特徴。)という病を患い
その湯治のため有馬温泉に向かおうと葦毛馬にまたがって出立した際に
兄・長慶の重臣である松永久秀に出会い、こう忠告される。

『有馬権現様は古来より、葦毛馬が御いだ。・・・馬を、乗り換えたほうが良いのでは?』

三好四兄弟は兄長慶を奉り結束の強い事で知られていたが、たった一つだけ相違点があった。
義賢・冬康・一存の三人はこの男・・・松永弾正少弼久秀を良く思っていなかった事である。
中でも、四弟・十河一存は久秀の事を最も嫌っており、そのことを高言しているほどであった。

『なるほど、権現様は葦毛馬が嫌いなのか・・・だがな。
     儂はそれ以上に貴様の事が大嫌いだ。貴様の言うことなど、絶対に聞かん。』


しかし、有馬温泉の神・湯山権現が嫌う葦毛馬で湯治に向かった為の祟りなのか
一存は療養中で落馬して負傷し、その傷が元で程無くしてしてしまった。
法名は『劒翁活公宗活禅定門』あるいは『清光院殿春月宗円禅定門』。
墓所は、香川県高松市・称念寺に所在している。

その謎めいた急逝の真相は今も謎に包まれており、
落馬したのは兄・長慶に取り入る奸臣・松永久秀を粛清することが出来ないでいる
我が身を疎んでわざと落馬したという説や療養中に刺客に襲われたという説、
その逝去の際にその場に松永久秀が居合わせた事から、彼による暗殺であるという説など
多種多様の説が流布されている。真相は、物言わぬ墓石となった鬼十河のみが知る。


当コーナーでは、三好四兄弟一の武闘派。
家中一番の武力73を誇り今日は四国、明日は畿内と東奔西走する。
しかし、合戦では最も頼りになる鬼十河には、他の兄弟には無い重要な弱点があった。
果たして、その弱点とは・・・。





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